LOGIN「白石。今夜、少し付き合ってくれ」
午後八時四十分。 社長室に残っている社員は、私ひとりだった。 東條怜司は、手元の資料から顔を上げずに言った。 「……まだ、お仕事が残っているんですか」 「いや。今日の分は終わった」 「そうでしたか。では、何か確認事項でしょうか」 そこでようやく、怜司が顔を上げた。 「食事だ。こんな時間まで付き合わせたんだから、夕飯くらいご馳走させてくれ」 「……そんな、お気遣いなく。私の仕事ですから」 動揺し、一瞬返事をするのが遅れる。 「君はいつもそう言うな」 怜司は資料を閉じ、椅子の背にもたれた。 「俺が食事に誘うのは、そんなに珍しいか?」 「……正直申し上げますと、少し、驚きました」 怜司は小さく笑った。 「そうか。もう少し誘い方を考えるべきだったな」 「いえ、そんなつもりでは……」 「では、改めて。白石、今夜は食事に付き合ってくれないか」 いつもは部下に指示を出す側の人が、わざわざ言い直してくれた事実に、かえって戸惑ってしまう。 「……私でよろしければ」 「よかった。時間外労働だと断られるかと思ったよ」 「そんなことはありません!」 慌てて答えてから、少し早口になってしまったことに気づいた。もっと上手い言葉が見つかれば良いのにと、もどかしい気持ちになる。 怜司は気にした様子もなく、立ち上がった。 「じゃあ、行こう」 「はい。すぐに支度します」 デスクの上を片づけ、鞄を手に取る。 その間に怜司は自分のコートを羽織り、私のほうへ視線を向けた。 「白石、仕事はもう終わりだ。そんなに急がなくていい」 「申し訳ありません。お待たせしてしまって」 「謝らなくていい。君を誘ったのは俺なんだから」 そう言って、彼は私の椅子にかかったカーディガンを取る。 「どうぞ」 「ありがとうございます」 差し出されたそれを受け取りながら、私はそっと彼を見上げた。 誰にでも厳しく、簡単には隙を見せない人なのに、ふとした瞬間に、どうしようもなく優しい。 「何が食べたい?」 「えっと、いえ、特には」 「そうか。近所になかなか評判の良いイタリアンがあるんだ、そこに行こう」 イタリアンは大好物だった。しかし果たして、緊張の中で味は楽しめるだろうか。 九月も終わりに近づき、夜風には少しずつ秋の気配が混じり始めていた。昼間の熱気がまだ残る街を、カーディガンの前を合わせながら歩く。 胸の奥が、少しだけ騒がしくなった。 *** 連れて行かれたのは、都内のホテルにあるレストランだった。 窓の向こうには、街の明かりが広がっている。 席に案内されてから、私は落ち着かない気持ちでメニューを開いた。 こういう場所には、あまり慣れていない。 ましてや、目の前にいるのは会社の社長だ。 「苦手なものはあるか?」 怜司に尋ねられ、私は慌てて顔を上げた。 「いえ、特にはありません」 「好きなものは?」 「何でもいただきます」 「それは助かるが、答えになっていないな」 彼は困ったように笑った。 「遠慮しなくていい。今日は君に好きなものを食べてもらいたいんだ」 「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて……こちらをお願いしてもいいでしょうか」 メニューのいくつかを指さすと、怜司は満足そうにうなずいた。 「もちろん」 注文を終え、料理が運ばれてくるまで、私たちはゆっくりと話をした。 会社のことだけでなく、休日の過ごし方や好きな食べ物の話もした。 「白石は、休みの日は何をしているんだ?」 「家でゆっくりすることが多いです。買い物に出かけることもありますけど」 「そうか」 「社長は何をされているんですか?」 「俺は休みの日も仕事をしていることが多いな」 「……お忙しいんですね」 「君が一番よく知っているはずだ」 「それでも……たまには、ゆっくり休んでください」 口にしてから、出過ぎたことを言ってしまったかもしれないと思った。 けれど、怜司は意外そうに私を見たあと、ふっと笑った。 「ありがとう。君にそう言われると、ちゃんと休まないといけない気がしてくるな」 「いえ、私は……」 「冗談だ。そんなに困らなくていい」 私は小さく笑って、グラスに手を伸ばした。 仕事中の怜司は、いつも冷静で隙がない。 けれど今夜は、普段より少しだけ表情が柔らかかった。 こんなふうに話せることが、嬉しい。 ずっと憧れていた。 初めて彼を見た日から、ずっと。 「白石」 「はい」 「今日は来てくれてありがとう」 脈絡なくそう言われ、私は目を瞬いた。 「こちらこそ、ごちそうになってしまって……ありがとうございました」 「君は、本当に礼儀正しいな」 怜司は楽しそうに笑った。 「もう少し気楽にしてくれてもいいんだぞ」 「……努力します」 そう答えると、彼は満足そうにうなずいた。 その笑顔を、私はきっと忘れられない。 そう思うくらいには、今夜の私は幸せだった。 *** 食事を終えてレストランを出る頃には、雨が降り始めていた。 ホテルのエントランスから外を見ると、雨粒が地面を強く打っている。 「あいにくの雨だな」 怜司が空を見上げた。 「そうですね……」 念の為鞄の中を確かめたが、やはり傘は入っていない。 「傘を持っていないのか?」 「はい。会社を出たときは降っていなかったので」 「家までは電車だったな」 「はい。駅まで近いので大丈夫です」 「この雨の中を歩かせるわけにはいかないな。車を呼ぶ」 「いえ、そこまでしていただかなくても……」 「白石」 名前を呼ばれ、私は口を閉じた。 怜司は責めるような顔をしているわけではなかった。ただ、少し困ったように私を見ていた。 「君は、もう少し人の好意に甘えてもいいと思うぞ」 「……すみません」 「謝ってほしいわけじゃないんだがな」 彼は小さく息を吐いてから、表情を和らげた。 「今日は俺が誘ったんだ。帰りまで面倒を見させてくれ」 「……ありがとうございます」 結局、雨はますます強くなっていった。 おまけに近くの幹線道路で複数台が絡む事故があったらしく、車を呼んでも到着までかなり時間がかかるということだった。 時計を見ると、すでに日付が変わろうとしている。 怜司はフロントに車の到着見込みを確認したあと、私のほうへ向き直った。 「このホテルに泊まっていくか?」 「え……」 思いがけない提案だった。 「もちろん、部屋は別々に取る。無理にとは言わない。車が来るまでロビーで待つこともできる」 「いえ……えっと……」 私は視線を落とした。 怜司と同じホテルに泊まる可能性に、落ち着かなくなる。 「ただ……少し驚いてしまって」 「そうだろうな。急な話だから」 彼はそれ以上、急かさなかった。 「どうする?」 断るべきだと思った。 彼は上司で、私は秘書だ。 これ以上、特別な思い出を増やしたら、きっと今までどおりにはいられなくなる。 けれど、まだ帰りたくないと思ってしまった。 もう少しだけ、この時間が続けばいいのに。 「……お言葉に甘えても、よろしいでしょうか」 「もちろん」 怜司は穏やかにうなずいた。 「手配してくる。ここで待っていてくれ」 彼がフロントへ向かう背中を、私はぼんやりと見つめていた。 自分でも、どうしてこんな選択をしたのか分からない。 ただ、憧れの人と過ごせる時間を、手放したくなかった。 *** 案内された客室は、落ち着いた色合いの広い、いかにも上質な部屋だった。 大きな窓の向こうには、雨に濡れた夜景が広がっている。 怜司は私を部屋の前まで送ると、隣の客室を指さした。 「俺はこっちにいる。何かあれば連絡してくれ」 「はい。今日は本当にありがとうございました」 「こちらこそ。ゆっくり休んでくれ」 彼が隣の部屋へ入るのを見届けてから、私は自分の部屋に入った。 ひとりになると、急に静けさが気になった。 せっかく同じホテルにいるのに、もう今夜は会えないのだろうか。 そんなことを考えてしまう自分に、苦笑する。 シャワーを浴び、備え付けの部屋着に着替えた。 濡れた髪をタオルで拭いていると、部屋の電話が鳴った。 「はい」 『白石、俺だ。もう休んでいたか?』 彼の声だった。 「いえ、まだ起きています」 『そうか。少し話したいことがあるんだが、時間をもらえるか』 「……はい。大丈夫です」 『部屋に行ってもいいか?』 「はい。お待ちしています」 電話を切ってから、私は慌てて鏡を見た。 部屋着のままでいいのだろうか。 髪もまだ乾いていない。 迷っているうちに、ドアがノックされた。 「白石、俺だ」 扉を開けると、怜司が立っていた。 「遅い時間に悪いな」 「いえ。どうぞ、お入りください」 彼を部屋に招き入れる。 怜司は窓際のソファに腰を下ろした。 「髪、まだ濡れているな。ドライヤーはあったか」 「はい。あとで乾かします」 「急に訪ねてすまない。風邪を引かないようにな」 その何気ない気遣いに、私は思わず笑った。 「社長は、いつも私の体調を気にしてくださいますね」 「君は放っておくと無理をするからな」 「そんなことは……」 「ない、と言い切れるか?」 仕事中と同じような口調に、私は返す言葉を失った。 怜司は少し笑って、隣の席を示した。 「白石。こっちに来てくれないか」 私は少しためらってから、そっと腰を下ろした。隣に座っているだけなのに、落ち着かない。 近すぎる気がして、けれど離れるのも不自然な気がして、私は膝の上で手を重ねた。 「今日は、楽しかったか?」 「はい。とても楽しかったです」 「それならよかった」 彼は私を見つめた。 「俺は、君ともっと一緒にいたいと思っている」 心臓が大きく跳ねた。 「……私と、ですか?」 「ああ」 あまりにもはっきり答えられて、何も言えなくなった。 「どうして……」 思わず口にしかけて、私は慌てて首を振った。 「すみません。変なことを聞いてしまって」 「構わない。何が聞きたい」 「いえ……」 本当は、聞きたいことがたくさんあった。 どうして私を誘ってくれたのか。 どうして、こんなに優しくしてくれるのか。 私を秘書としてではなく、一人の女性として見てくれているのか。 けれど、怖くて聞けなかった。 怜司は、私の顔を静かに覗き込んだ。 「……紗奈」 ためらいがちに、低い声が私の名前を呼ぶ。 思わず息をのんだ。 「……はい」 「こっちを見てくれ」 ゆっくり顔を上げると、彼はすぐ近くにいた。 頬に、そっと手が触れる。 「触れてもいいか」 私は驚いて、彼を見つめた。 私なんかが彼の相手でいいのだろうか。 迷いが顔に出ていたのか、怜司は手を止めた。 「嫌なら、しない」 その言葉に、私は慌てて首を振った。 「嫌では、ありません」 声が震えてしまった。 「ただ……信じられなくて」 「何が?」 「私にこんなふうにしてくださることが……」 言い終える前に、目の奥が熱くなった。 「今は信じてくれなくてもいい。俺のそばにいてくれれば」 唇が重なる。触れて、離れて。 それだけなのに、全身の力が抜けそうになった。 「……私、ずっと憧れていました」 精一杯の勇気を振り絞っても、好きとは言えなかった。 「初めてお会いしたときから、ずっと……。こんなことを言って、すみません」 「謝ることじゃないだろう」 彼は私のまだ若干湿っている髪を解く。 「俺は、君のそういうところも好きだよ」 一瞬、呼吸が止まった。 好き。 彼が、私を。 でも、それはどういう好きなのだろう。 尋ねる勇気はなかった。 ただ、彼が今ここにいて、私を見つめてくれている。 今夜だけでも、その事実を信じていたかった。 窓の外では、雨が降り続いている。 朝になったら、私はまた彼の秘書に戻るのだろうか。 今だけは、何も考えたくなかった。 彼が私に何を望んでいるのか。 この先、私たちがどうなるのか。 何も知らないまま、ただ彼の温もりを感じていたかった。 *** 翌朝、目を覚ますと、怜司の姿はなかった。 一瞬、昨夜の出来事が夢だったのではないかと思った。 けれど、隣の枕には、彼が眠っていた跡が残っていた。 頬が熱くなる。 本当に、彼と一緒に夜を過ごしたのだ。 そのとき、部屋の向こうから怜司の声が聞こえた。 「……ああ、見合いの件か」 私は思わず動きを止めた。 「父さんの考えは分かっている。会社のために必要なら、いずれは考えるさ」 見合い。結婚。 会社のため。 胸の奥が、すっと冷えていく。 「相手は誰でもいいというわけじゃない。ただ、感情だけで決めるつもりもない」 電話の向こうの声は聞こえない。 怜司は少し間を置いてから、淡々と続けた。 「その話は、また今度にしてくれ。今日は朝から予定が詰まっている」 通話が切れた。 私は布団を握りしめた。 昨夜のことを、怜司はどう考えているのだろう。 何度も私の気持ちを確かめてくれたし、私が不安にならないように気遣ってくれた。何より、好きだとも言ってくれた。 けれど、今聞こえたのは、会社のためなら見合いも考えるという言葉だった。 感情だけで決めるつもりはない、とも。 それが私との関係について言った言葉ではないことくらい、分かっている。 それでも、昨夜の彼の言葉を思い出すと、どうしても混乱した。 東條グループを背負う彼にとって、結婚は自分ひとりの気持ちでは決められないものなのだろう。 だとしたら、私達の関係はどうなるのだろう。 彼が私を好きだと言ってくれたとしても、その先に結婚という未来があるとは限らない。 昨夜のことも、彼にとっては一時の気の迷いだった可能性さえある。 「……何を期待していたんだろう」 小さくつぶやいた。 やがて、怜司が寝室に戻ってきた。 「起きたのか」 「……はい。おはようございます」 いつもの癖で、つい仕事中と同じ挨拶をしてしまった。 怜司は一瞬、私を見つめた。 「おはよう。よく眠れたか?」 「はい。おかげさまで」 本当は、目覚めてから聞いてしまった電話の内容が頭から離れなかった。 怜司はベッドのそばまで来ると、私の顔を覗き込んだ。 「……どうかしたか」 「いえ、何でもありません」 「そうか?」 彼は何か言いかけたようだったが、スマートフォンが鳴り、画面を確認した。 「悪い。会社からだ」 「はい。打ち合わせのお時間ですよね」 「ああ。支度ができたら声をかけてくれ。送っていく」 「ありがとうございます」 彼が電話に出ている間、私は静かにベッドを降りた。 昨夜のこと聞くのはやめよう。 もし、彼にとって何の意味もない夜だったのなら、きっと私は今までどおり彼のそばにいることさえできなくなる。 身支度を整え、怜司のもとへ戻った。 彼は電話を終え、時計を確認していた。 「準備はできたか」 「はい。お待たせして申し訳ありません」 「気にしなくていい」 怜司は私の鞄を取ろうとしたが、私は慌てて首を振った。 「大丈夫です。自分で持てますから」 伸ばしかけた彼の手が、止まった。 ほんの一瞬、彼の表情が強張ったように見えた。すぐにいつもの顔に戻る。 「そうか。じゃあ、行こう」 「はい」 部屋を出る直前、私は一度だけ彼を見上げた。 昨夜はあんなに近くにいたのに。今は、どんな顔で彼の隣に立てばいいのか分からなかった。 混乱のなかでも、車の中ではいつもどおり仕事の話が進む。 「社長、本日は九時半から会議が入っています。資料はすでにデスクに置いてあります」 「分かった。ありがとう」 怜司は一度こちらを見たが、私は手元の予定表から顔を上げられなかった。 そのまま、会議の準備についていくつか確認をした。 彼はいつもの東條怜司に戻っていた。 私も、いつもの白石紗奈に戻らなければならない。 こんなに曖昧な関係になるなら……。そう思いかけて、すぐに打ち消す。 昨夜、彼と過ごせたことを後悔しているわけではない。 会社のビルが近づいてくる。 私は予定表を閉じ、背筋を伸ばした。 「社長、到着しました」 「ああ」 車が停まる。 いつもの朝が始まっていた。「まま!」 背後から元気な声が聞こえた。 振り返ると、湊が小さな靴を片方だけ持って立っていた。 「湊、お靴履きたいの?」 「ん!」 「じゃあ、もう片方はどこかな?」 湊は手元の靴を見つめ、それから部屋の中をきょろきょろと見回した。 「あれ? なくなっちゃった?」 「ない!」 「困ったねえ」 私が笑うと、湊も嬉しそうに笑った。 最近の湊は、何でも自分でやりたがる。 靴を履くのも、スプーンを持つのも、私が手伝おうとすると首を振る。 もっとも、靴は左右逆になるし、スプーンで食べるより手で食べた方が早い。 それでも、できることが少しずつ増えていく姿を見るのは楽しかった。 「紗奈、湊の靴ならソファの下にあったわよ」 母がもう片方の靴を持ってきてくれた。 「ありがとう、お母さん」 「はい、湊くん。これでお出かけできるわね」 「ばあば!」 湊は母から靴を受け取ると、私の膝にちょこんと座った。 「ふふ。自分で履くんじゃなかったの?」 「まま」 「はいはい。お手伝いします」 小さな足に靴を履かせる。 ほんの少し前まで、抱っこしていなければどこにも行けなかったのに。 今では自分の足で玄関まで歩いていく。 子どもの成長は、本当に早い。 *** 今日は湊と二人で、商店街まで買い物に行く予定だった。 ベビーカーに乗せようとすると、湊は嫌がって両手を伸ばしてきた。 「歩きたいの?」 「ん!」 「じゃあ、少しだけね」 手をつないで歩き始めると、湊は一歩ごとに足元を確かめるように進んだ。 道端の花。 電柱の影。 風に揺れる木の葉。 大人なら気にも留めないものが、湊にはどれも新鮮らしい。 「まま、あ!」 湊が指さした先には、小さな犬がいた。 「わんわんだね」 「わんわ!」 「そうそう、わんわん」 飼い主の女性が微笑み、犬も尻尾を振った。 湊は嬉しそうに笑ったけれど、犬が近づいてくると、慌てて私の足にしがみついた。 「怖かった?」 「……わん」 「大丈夫だよ」 しゃがんで抱き上げると、湊は私の肩に頬を寄せた。 商店街に着く頃には、湊はすっかり疲れてベビーカーの中で眠っていた。 「お疲れさま」 小さな寝顔
「紗奈、そろそろ携帯を買い替えたらどうだ?」休日の朝、父が新聞を読みながら言った。「え、どうして?」「昨日も充電が切れたって言ってただろう。もう何年使ってるんだ」「四年くらいかな。最近、急に電源が落ちることがあって」「それなら買い替えた方がいい。湊を連れて出かけたときに使えなくなったら困るだろう」確かに、その通りだった。先日もスーパーで買い物をしている最中に電源が落ち、母からの電話に気づかなかったことがある。「そうだね。今日、見に行ってこようかな」「湊は私たちが見てるから、ゆっくり行ってきなさい」母が台所から顔を出した。「え、いいの?」「もちろん。たまには一人で出かけてきたら?」紗奈は少し迷ったものの、ありがたく甘えることにした。湊が生まれてから、一人で外出する機会はほとんどなかった。久しぶりに身軽な格好で家を出ると、秋の風が頬を撫でた。もう夏も終わりに近づいている。***携帯ショップは、休日ということもあって混雑していた。受付を済ませてから三十分ほど待ち、ようやく名前を呼ばれる。「本日は機種変更ですね」「はい。最近、電池の持ちが悪くて」「かしこまりました。ちなみに、電話番号はそのままお使いになりますか?」店員の何気ない質問に、紗奈は顔を上げた。「……番号って、変えられるんですか?」「はい。新しい番号でご契約いただくこともできますよ。ただし、その場合はご家族やご友人に新しい番号をお知らせいただく必要があります」「そうなんですね」紗奈は膝の上に置いたバッグに目を落とした。電話番号を変える。今まで、そんなことは考えてもいなかった。けれど、その言葉を聞いた瞬間、ある人の顔が浮かんだ。東條怜司。昨夜も、彼からメッセージが届いていた。『白石。来月、少し時間を作れないか。君に会って話したいことがある』その文章を、何度読み返しただろう。会いたいとしっかり言葉にされたのは初めてだった。私にだって伝えたいことはたくさんある。それでも、一度返事をしてしまえば、きっと彼は会いに来る。仕事でも、一度決めたことは必ず実行する。曖昧な態度で引き下がるような人ではない。「お客様?」店員に声をかけられ、紗奈は我に返った。「あ、すみません」「いえ。お電話番号はいかがなさいますか?」紗奈は少し考えてから、口を開いた。
時が流れるのは早い。育児に奮闘しながら必死に過ごしているうちに、湊はあっという間に一歳の誕生日を迎えた。去年の今頃は、まだ腕の中で眠ることしかできなかった小さな命が、今では家具につかまって立ち、得意そうに笑っている。「湊、お誕生日おめでとう!」母が拍手をすると、湊も真似をして小さな手をぱちぱちと叩いた。「まあ、上手!もう一回やってみて」「ばば、ばあば!」「はいはい、ばあばですよ」嬉しそうに孫を抱き上げる母を見て、私は思わず笑顔になった。リビングには色とりどりの風船が飾られ、テーブルには母が作った料理が並んでいた。私が朝から格闘して作った小さな誕生日ケーキも、冷蔵庫で出番を待っている。「お父さん、写真撮ってくれる?」「ああ。湊、こっち向いてみろ」父がスマートフォンを構えると、湊はなぜか反対方向を向いた。「おいおい、じいじはこっちだぞ」「湊、こっち!」私が呼ぶと、今度は満面の笑みで振り返った。「よし、撮れた!」父が得意げに画面を見せてくる。そこには、湊ではなく、必死に息子の気を引こうとしている父の顔が大きく写っていた。「お父さん、これインカメになってる。お父さんしか写ってないよ」「おかしいな」「貸して。私が撮るから」「いや、今度こそ撮れる」そんなやり取りを繰り返していると、玄関のチャイムが鳴った。「はーい」母が出迎えに行くと、聞き慣れた声がした。「こんにちは。これ、湊に」「まあ、悠真くん!ありがとう。上がっていって」高瀬悠真だった。「お邪魔します」悠真は小さな紙袋を手に、リビングに顔を出した。「湊、誕生日おめでとう」「ゆー!」湊は悠真を見つけると、嬉しそうに両手を伸ばした。「お、覚えててくれたか」悠真がしゃがむと、湊は迷わずその腕に飛び込んだ。「ちょっと湊、悠真が来るといつも大喜びなんだから」「俺のこと好きなんだよな?」「きゃっ!」湊が笑い声を上げると、悠真も楽しそうに笑った。悠真は仕事の合間や休日に、ときどき顔を出してくれるようになっていた。買い物を手伝ってくれたり、湊の遊び相手になってくれたり。気がつけば、湊にとってもすっかり馴染みのある存在になっていた。「これ、プレゼント。よかったら使って」紙袋から出てきたのは、木製の積み木だった。「わあ、可愛い!ありがとう」「角が丸く
庭の木々が色づき、やがて葉を落とす頃には、湊もずいぶん表情が豊かになっていた。成長とともにわがままも増え、日中は一緒に過ごすだけでへとへとだ。ようやく湊が眠った夜、紗奈のスマートフォンが震えた。画面には、懐かしい名前が表示されていた。『藤崎美咲』東條グループで働いていた頃の、仲が良かった同期だ。入社当時は同じ部署に配属され、昼休みにはいつも一緒に食事をしていた。お互い部署の異動があってからは、なかなか顔を合わせる機会もなくなっていた。最後に会ったのは、いつだっただろう。育児ばかりの毎日で少し疲れていた紗奈は、久しぶりに明るい彼女の声を聞きたくなり、電話を取った。「もしもし、美咲?電話ありがとう、久しぶり〜」『紗奈!よかった、元気?ちょっとあんた、どうしたの?仕事辞めたこともつい最近知ったのよ!全然連絡くれないんだから』「ごめんごめん。ちょっと色々大変で、毎日ばたばたしてて」『……そっか、お疲れ様。まあ、元気ならいいんだけどね』相手の態度から瞬時に事情を察し、深く追及してこないところも美咲の素敵なところだ。「久しぶりに美咲の声聞けて嬉しい〜」『なによ〜、退職の連絡もくれなかったくせに!』「本当にごめんってば。美咲はどう?仕事忙しい?」『忙しいわよ。先月なんて残業続きで、せっかく予約した美容院もキャンセルしたんだから』「あはは、美咲が美容院を諦めるなんて相当だね」『そうなのよ!でもね、最近ちょっと面白いことがあって』「えっ、なになに?彼氏できた?」『残念、そっちは相変わらず。でも、すごいんだから、聞いてよ』弾んだ声の美咲から出るのは、大抵社内の恋愛か不倫の話題だった。以前も、営業部の課長と経理部の女性社員が付き合っているという噂を聞きつけ、昼休みいっぱいを使って紗奈に報告してきたことがある。今回もその類いだろうと思っていた。『今日ね、なんと社長に呼び止められたの』「……社長に?」思いがけない名前に、紗奈は姿勢を正した。『そう。廊下でばったり会ったら、白石とは最近連絡を取っているかって』「それで、何て答えたの?」『最近は連絡してないって言ったら、そうか、って。それで終わりかと思ったんだけど』美咲は楽しそうに笑った。『そのあと、白石は元気にしていると思うか、って聞かれたのよ』「……そんなことを?」『びっくり
春の終わりを見送った覚えもないのに、いつしか夏が来ていた。窓の外では、蝉が短い命を惜しむように鳴いている。七月の強い陽射しがカーテン越しに差し込み、私は大きくなったお腹をそっと撫でた。出産予定日が近づくにつれ、お腹はますます重くなっていった。寝返りを打つにも時間がかかり、少し歩くだけで息が上がる。母は家事を引き受け、父も休日には買い物や重い荷物を運ぶのを手伝ってくれた。「必要なものは揃っているか?」父がベビーベッドの横で尋ねた。「うん。あとは赤ちゃんが生まれてくるのを待つだけだよ」「そうか。何か足りなかったら言いなさい」父はベビーベッドの柵を確かめると、満足そうにうなずいた。母と一緒に選んだ小さな肌着も、きれいに畳んである。もうすぐこの服を着た赤ちゃんを抱けるのだと思うと、不安の中でも自然と顔がほころんだ。「もうすぐ会えるね」私はお腹を撫でながら話しかけた。そのとき、枕元のスマートフォンが震えた。画面に表示された名前を見て、指が止まる。東條怜司。『無理に返事をしなくていい。ただ、元気でいてくれたらそれでいい』ずいぶん前に届いたメッセージが、画面に残っている。何度も読み返した言葉だった。返事をしなくてもいいと言ってくれた、その優しさに甘えたまま、私は結局一度も返信できずにいた。その下には、半年以上ぶりに新しいメッセージがあった。『返事はいらないと言ったのは俺だったな。前言撤回させてくれ。元気か?』彼らしい文章に、思わず口角が上がる。責める言葉は、どこにもなかった。それがかえって、胸に痛かった。怜司さんは、まだ私を心配してくれている。何も知らないまま。今、私のお腹の中にいる小さな命が、あなたの子供だということも。既読がついたのに気づいたのだろうか。画面を見つめていると、さらにメッセージが届いた。『今度こそ、ちゃんと時間を取ろう。食事でもどうだ』まるで、私が断ることをわかっていて、それでも誘ってくれているようだった。あの人は、こんなふうに何度も連絡をくれる人だっただろうか。お腹の子が、小さく動いた気がした。スマートフォンを伏せる。「……もうすぐ会えるね」今は、この子を迎えることに集中しよう。***陣痛が始まったのは、夜明け前だった。最初は下腹部に鈍い痛みを感じる程度だったが、次第に間隔が短くなり、痛みも
実家に戻ってから二週間ほどが過ぎた。その日は朝から母の体調が優れず、代わりに商店街へ買い物に出かけていた。買い物を終え、スーパーの袋を提げて商店街を歩いていると、背後から声をかけられる。「……紗奈?」聞き覚えのある低く清涼な声だった。振り返ると、少し離れたところに背の高い男性が立っていた。白い厚手のコートの袖を肘までまくり、片手に紙袋を持っている。一瞬、誰だか分からなかった。けれど、その人が目を細めて笑った瞬間、記憶がつながった。「……悠真?」「やっぱり紗奈だ」高瀬悠真。小学校から高校まで一緒だった、幼なじみだ。「えっ、久しぶり!」「久しぶりって……何年ぶりだよ」「五年くらい?」「六年。成人式以来だろ」「そんなに経つ?」「経つよ。相変わらずだな」悠真は呆れたように笑った。昔より背が伸びた気がする。もう少し細身だったのに、今は肩幅も広くなっていた。けれど、笑うと少し目尻が下がるところは昔のままだ。「悠真、こっちに住んでるの?」「ずっといるよ。大学出てから戻ってきて、就職先もこっち」「そうなんだ。全然知らなかった」「お前、東京行ってからほとんど帰ってこなかったもんな」「仕事が忙しくて」「知ってる。おばさんから聞いてた。東京の大きな会社で社長秘書やってるって」「……もう辞めちゃったけどね」私がそう言うと、悠真は少し驚いた顔をした。「辞めたの?」「うん。最近」「そっか」何か尋ねられるかと思ったけれど、悠真はそれ以上聞かなかった。代わりに、私の持っている買い物袋に視線を落とした。「それ、重くない?」「大丈夫だよ。そんなに買ってないし」「貸して」「えっ、いいよ」「いいから」そう言って、悠真は私の返事を待たずに袋を受け取った。「ちょっと、昔からそういうところ変わらないね」「何が?」「人の話を聞かないところ」「お前が遠慮しすぎなんだよ」当たり前のように言い返され、思わず笑ってしまう。高校生の頃も、悠真はこうだった。私が文化祭の準備で大量の荷物を運んでいると、何も言わずに半分持っていってしまう。テスト前に参考書を抱えて帰っていると、「重そう」と言いながら勝手に鞄を持つ。そのたびに私は「自分で持てるのに」と文句を言っていた。懐かしい。「そういえば悠真、今は何の仕事してるの?」「駅の







